愛媛大学の歩み(5)−昭和天皇の愛媛大学視察−

 今回は、愛媛大学開学の翌年、昭和25年におこなわれた、昭和天皇の大学視察のエピソードを紹介します。
 戦後、人々が経済的に満たされず、精神的にも癒やされてはいなかった頃、昭和24年から天皇の地方巡幸が行われました。 昭和25年2月初旬、四国への巡幸が決定し、3月13日より行われることとなりました。 同月17日に愛媛県入りし、川之江、新居浜、西条、今治、北条、そして松山、八幡浜、宇和島と訪れ、興居島での休養日を含む5日間を愛媛県で過ごされました。 その間、各地の主要産業の工場や、病院、学校等を回り、愛媛大学へは3月18日に訪れました。 午後4時50分頃、小雨降る中、当時持田町にあった大学本部に到着した天皇一行を、多くの人々が出迎えました。 愛媛大学をはじめ、県内の各大学や、県教育委員会などの教育関係者に対し、「教育のことは大切であるから、今後ともしっかりやって下さい。」との言葉がありました。(「愛媛大学行幸記録」学報第2号:昭和25年4月1日)。 その後文理学部長室に展示された愛媛大学、松山商科大学(現松山大学)、松山農科大学(現愛媛大学農学部)がそれぞれ所蔵している資料や書籍、愛媛県の文化財などをごらんになりました。 松山商科大学所蔵のアダム・スミス著『富国論』初版本や、松山農科大学所蔵の石鎚山の昆虫類、東雲神社所蔵の能面など、さまざまな展示物の中で昭和天皇が殊の外興味を示されたのは、愛媛大学が出品した、ヒドラなど生物関係の展示物であったようです。 顕微鏡を何度ものぞき、ルーペを手にしてヒドラに見入る姿は、「全く生物学者が研究室にあって観察に余念がないよう」であったと、前出の「愛媛大学行幸記録」に記されています。 当時の愛媛新聞を見てみると、四国の人々がこのような巡幸を歓迎し、大変喜んでいたことがわかります。
 次の能島俊氏(学生)の感想は、若い世代の感情を素直に表していると思います。

 奉迎に当たって我々若い世代の眼はどうしても批判的にならざるを得なかった。 ・・・・。 誰とて同じであろうが私の心の大半を領していたのは強い好奇心であった。 今まで一度もお目にかかったことのない天皇、神様であった天皇、友達がその方の為に命を捧げた天皇とはそも如何なる人であろうかという気持ちであった。 私はどうしても素直な気持ちになれず種々の雑念を抱いてお迎えしたわけであったが、一度万歳の歓呼と君が代の高唱の中に陛下の御姿をまざまざと拝見した時は今までの心の雑念はことごとく消え去り、筆舌につくし難い感動に強く心をゆすぶられ、感激に胸がつまった。 ・・・・。 民族精神の復活、ここに天皇巡幸の最大の意義があると思う。 ・・・・。 それにつけても思うことは・・・・未だ抜けきらない天皇神格化の思想から一時も早く脱すべきである。(「愛媛大学行幸記録(四)奉迎送感想録」学報第2号:昭和25年4月1日)

 昭和天皇の地方巡幸には、「戦争にまつわる複雑な国民感情を慰撫」し、「戦争責任の心理的解消をはかる」とともに、「象徴天皇・人間天皇」を宣伝する、という目的があったと考えられていますが、その評価はどうあれ、地域の大学の人々に、忘れがたい強烈な印象を残したのでした。(S.T)

① 参考文献:
  『戦後史大事典』(三省堂)
  『日本 同時代史①敗戦と占領』(歴史学研究会 青木書店)


昭和天皇

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